一日一善

善福寺川緑地公園

一日一善という言葉を、いつも心の中、大切にしています。

僕はこの命尽きて、天に最初に問われる事は「あなたは現世において何をしてきましたか?」であると思っています。

これは僕の勝手な観察だけど、一日一善の行を積むことに必死で修行している清らかな人間は、例外なく保身に走らない傾向があると思うんです。例えばお米が福島産だから買うの止めようなんていう考えは正直、僕自身、重要視していなくて、日頃からあまり気にしていないと思う。何故なら本当に恐れるべきことは、悪い物を体内に吸収することではなく、己が悪い波動をアウトプットすることだと判っているから。

偉大な自然エネルギーの磁力を持つ良質の水晶や、ラピスは善悪をも分け隔てなく様々な波動を吸収(インプット)して内部において浄化し、活性化し、清らかな波動を放出(アウトプット)する。まるでナウシカの腐海と同じようなことが自然界では行われているのに、これと同じことが人間に出来ないことこそ、文明の欠落した部分なのだと思う。 

そもそも人間が水晶のように自然界にとっての浄化装置になり、また人々に幸福を与えるラピスラズリのように生きられれば良いんだって、中学校の時に大親友と語り合っていた。

僕はパワーストーンに頼ることで身を守るより、自身が善行を行うことにより守られるという事実にプライオリティーを置いて生きてきたつもりだから、パワーストーン類は何も付けていません。部屋に天使の置物はあるけど、これはガラスかな? 水晶すら1つも置いていない。そんな僕を心配してくれる優しい人から、石のお守りも頂いたりはしました。(ありがとうございます、でも僕のことなんか守ってくれるより石たちが、少しでも自然の風や太陽を浴びて欲しいから、パワーストーンは部屋より自然に近いベランダに出しています)

観察者として思うことは、保身ばかりで日々あらゆることに恐れ怯えると、善行を行うことを忘れてしまいがちになる。この世は周っているので、多くの人が一日一善を実行していれば、誰もが多くの人の生んだ善行により、生まれた恩恵を受け取れることになる。逆に言うと、教授とか博士とか先生とか言われる人間も善行に欠いていれば、恐れ怯え保身を動機にした<不安を煽り私欲潤す不安マーケティングビジネス>に加担して、この世を汚す。

本当は一億二千万人いる国で、一人一人が何か1つの一日一善を行えていれば、あらゆる問題が嘘のように解決して、さらなる豊かさを実感できる・・・、そんな国を目指したいよね。 

一日一善が難しいのは、善かれと思った行動が相手にとってそうでない場合もあるということが挙げられます。しかし確実に、間違いじゃないこともあると思う。それは日々太陽を見つめて見習うことであり、特にサンライズ、朝日と同時に目覚めることに気づく点も多いのではないかなと思っています。

あと、心の動機が美しければ、どんな行いだって最終的に救われると思う。